布施弁天について

「布施の弁天さま」として親しまれている当山は、紅龍山布施弁天東海寺と称し、大同2年(西暦807年)に弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺です。平成18年には本堂・楼門・鐘楼が千葉県重要文化財の指定を受けました。

弁財天(弁才天)

七福神の弁天様は、『大日経』に説かれている二臂(二本の腕)をもっており琵琶を奏でる天女姿で、当山の布施弁天は義浄がインドから中国に持ち込んだとされる、『金光明最勝王経』に説かれている八臂弁財(才)天です。
八臂(八本の腕)弁財天は、剣、弓、矢、斧など武器を持った戦闘神、守護神の風体で裸形や天女の風情ではなく、中国の貴族女性の服装のようになっています。
剣は、不動尊も持っていますが、冴えわたった知恵を現し、また煩悩を断ち切るめに知恵の利剣というような意味で剣を持っています。
玉はいわゆる宝珠ということで、財宝、心の幸せを与える宝としてもっており、弓とか矢は、それぞれ心の魔、煩悩などを退治する知恵を改良するために持っています。
殊に、日本では江戸時代に七福神の1つとして、もっぱら福徳財宝の神であるとして衆庶の信仰を集めたのです。

弁財天はインド神話に出てくる河川神を神格化した女神のことです。俗に弁財天とも書き、略して弁天と呼びます。この神は人の汚れを払い、富・名誉・福徳・食物を与え勇気と子孫とを恵むとされ、のちには学問と技芸の神、雄弁と知恵の保護神としての地位を与えられたのです。
一方仏教では無礙弁天をそなえ、福知を増し、長寿と財宝を得さしめ、天災地変を除滅し、かつ戦勝を得させる天女とされます。

関東三弁天

弁財天の祠が多く水辺にあるのはもと河川神であったことに由来し、古来、近江の竹生島、相模の江の島、安芸の厳島、陸前の金華山、大和の天の川をもって本邦五弁天と称しました。
これに対して関東では、先の江の島、上野不忍に布施弁天を加え関東三弁天と呼んでいました。

亀の甲山と弁天社地

当地は元禄11年(1698年)知行替が行なわれ、上州利根郡沼田城主本多伯耆守の領分となりました。それにともなって同年、領主に差し出した絵図面には亀の形の山がみえ、この時初めて弁天社地の図が確認されるに至ります。
そして、翌12年亀の甲山は社地として認められ除地となり、供免田2箇所も同様の扱いを受けました。

東海寺

一方、弁財天の別当所である東海寺は、寛永9年(1632年)の「関東新義真言宗末寺帳」にその名はありませんでした。しかし、その所在は鎮守香取妙見の社地(古谷)にあって別当を勤めていましたが、亀の甲山が除地となると、同年15年には、わざわざ東海寺から弁天社地に留守居を出張させるようになりました。

東海寺と弁財天

しかしながら思うもまかせず、ついに宝永元年(1704年)当寺を弁財天境内へ移転したいと願書が出されました。その結果、翌年、当寺は古屋から弁天社地へ移転することとなり、ここに東海寺と弁財天は一体の歴史を歩むこととなったのです。

いわれ(縁起)

赤い龍と天女の御像

大同2年(807年)7月7日、大雷雨とともに赤い龍が現れ手にもった土塊を捧げて島を造り、その時から島の東の山麗から夜な夜な不思議な光が射しました。
ある時、天女が村人の夢に現れて、「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(現 兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」と告げました。
夢から覚めた村人が光をたどっていくとそこに三寸(約9センチメートル)ほどの尊い御像があったので、藁葺きの小祠を建てておまつりしました。

弘法大師による開山

のちに弘法大師空海が関東地域に巡錫のおり、この話を聞き布施に参り「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」と感嘆せられました。
そこで大師は寺を造り、山を紅龍山とよび、この村を天女の利益にあやかり「布施」と名付け、京に帰り親交の深い嵯峨天皇に事の次第を申し上げました。

嵯峨天皇の勅願所に指定

弘仁14年(823年)に入り、その話にいたく感動された嵯峨天皇は田畑を寄付され、堂塔伽藍を建立され勅願所(天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社)に指定しました。
本堂の向拝の回柱に菊の紋章があるのは、そのためです。

平将門と弁財天

承平年間(931年~938年)平将門の兵火のため焼失されたのちに、この時の討伐軍の武将源が戦跡巡りの際、不思議なことに遇い、弁財天を信仰することになり尊像奉持して、平将門の乱を制し、寺を再興し、本尊弁財天は松の木の上に避難し難を逃れていたので、松光院と名付けました。

現在の本堂が完成

その後も天災や戦乱で興廃を繰り返しますが、かねてから本尊を篤信していた領主である本多豊前守は正徳年間諸大名から寄進をもとめ、享保2年(1717年)に現在の本堂が完成しました。

おしえ(教養)

大日如来

大日堂

神秘にして聖なる偉大なる大生命とその営み、それを真言密教では大日如来といいます。我等人間も大日如来によって支えられ生かされています。
このことを信じすがる人々の為に、これらを救おうとされて我等の前に現れるとき、それは時に如来や菩薩となりいろいろな方便を以って積極的に願いを受けとめ、救いの手を差しのべます。

弁財天

弁財天

特に弁財天は「もし人々が、智慧を欲するならば最もすぐれた智を、財福を求むるならば本当の幸せを、寿命を欲するならば盛んな生命力を与えよう」等の八つの誓願を立てています。その八本の手の持物が、それを象徴しています。
そこで清らかな心でひたすらに念願すればこれに感応してくださるのであります。このことが千二百年の今日までこの地に栄ゆる所以なのです。

布施弁天のご本尊

弁財天

弁財天は皆さんが親しみを込めて『弁天さん』とよび、池の中の島や川端など水に近いところに祀られている、誰にも馴染み深い天部の仏一女神です。
そもそも弁財天の名前は、梵名でサラスバティ(*1)といいます。インドの大きな河に名づけた聖河の呼び名であるとも言われています。とにかく河そのものに対する信仰が河を神格化して崇拝の対象になったと思われます。
河は常に文明を生み出した母であると言われています。たとえばチグリス・ユーフラテス両河はメソポタミア文明を開き、ナイルのおおいなる流れがエジプト文明を起こしたことが思い出されます。こうしたことからも、河が神格化された意味を知ることができます。

(*1)ヒンズーの最高神であるブラーフマー(梵天)がサラスバティー(河川の神)を作り彼の妻にしたとされ、 ヒンズーの言語の女神ヴァーチュと同一視されていて、人の汚れを払い、富・名誉・福楽・食物を与え、勇気と子孫とを恵むとされ、のちには学問と技芸の神、雄弁と智慧の保護神として高い地位を確立しました。

雄弁の才を司る神

雄弁の才を司る神とされ、意訳されて弁財天といわれたのは、インドの時代からの信仰がつづいているからだと思われます。
人に自分の信ずる心を伝えて、多くの人の共感を得るためにも雄弁の才はとても大切であり、特に宗教の安心を説き、共に救われたいと願うものにとって、これは絶対不可欠の才です。
また、弁舌だけでなく、学芸知識を司り、言音を創造した女神とされるようになりました。金光明最勝王経の中に、『彼の天女を讃し加護を請求すれば福を得ること無辺なり』と説かれています。